静 炉巌(せいろがん)です。誰だよって? まぁまぁ、いいからいいから。
で、これだけは言っておきたい。パクりをナメるな!
劣化コピーみたいなジャンクもんのパクリが溢れすぎてんだよ。そんなんじゃ、イケないねぇ。パクりってのは、もっと芳醇で崇高なものだからね。
元ネタに違う角度から光を当てて本質を掘り下げたり、フレーズの新たな置き場所を見つけたり、真逆の解釈をしてみたり、便乗しつつコケにしてみたりと、元ネタから新たな価値を提示したり踏みにじってこそ、胸を張って「パクりました。ごめんなさい」って言えるんじゃないですかねぇ。どうですか、お嬢さん?
よくわからない? そうですか。じゃあね、“藤岡藤巻“や“藤岡藤巻 without 藤巻“の楽曲を聴いて、パクりについて学んでごらんなさいな。
えっ? “藤岡藤巻“ならポニョで知ってるけど、“藤岡藤巻 without 藤巻“は知らないって?
これはね、読んで字の如しですよ。“without“ってのは「〜なしで」って意味でしょ。だから、藤岡藤巻から藤巻さんを放り出したユニットってこと。数式で表すと“藤岡藤巻 ー 藤巻 = 藤岡”で、こんなのアインシュタインでもわかる引き算ですよ。つまりは藤岡さんのソロ活動名義なんです。
ちなみにこの名義は、その昔にやたらと“⚪︎⚪︎ with ⚪︎⚪︎“みたいな名前をつけたユニットが流行った時代があったんだけど、そのネーミングに対するアンチテーゼとしてつけられたわけ。
そして、藤岡さんこそは、群雄割拠のパクり時代において、パクリに美学を持ち込み、様式として極め、“パクり道の千利休“とも呼ばれる巨匠。その手法は幅広で、巨匠の手が生み出す作品の前では、元ネタの方が光を失ってしまう現象さえ、しばしば訪れる。
じゃあね、その手法の一つを表す例として、季節がら『死ね バレンタインデー』をみてみましょうか。
『死ね バレンタインデー』は、曲中に多くのブレイクを挟み、無音の“間“でさえ曲の一部として成立させている類稀な楽曲で、歌詞と共にオリジナル要素に溢れた歌だ。しかし、巨匠の神の手は、間奏部分に突如として現れる。
この歌の間奏では、琴の音色のようにも聞こえるアコースティックギターが、切なくフレーズを刻んで情感を盛り上げていく。
しかし、このフレーズは、1966年のホリーズのヒット曲『バスストップ』の間奏を持ち込んだものだ。いや、よく聴けば、このフレーズは、全体のモチーフにも薄く埋め込まれている。
それにしても、まさかこの間奏が、能天気な60年代ポップスから来ていたとは。だが聴けば聴くほどに、このフレーズがしっくりとくるのは『死ねバレンタインデー』の方である。
もしフレーズにも意思があるのなら、大喜びで『バスストップ』を逃げ出して、『死ねバレンタインデー』に飛び込んでくるだろう。
これは、パクり道48手の一つ、“配置転換“と呼ばれる手法だ。サラリーマンなら悲しい響きをもつこの言葉も、パクリの美学においては、新天地で新たな価値を創出する技巧となる。
この手法のよく知られた例に、モンキーズの『恋の終列車』(Last Train to Clarksville)がある。この歌は、ビートルズの『ペーパーバック・ライター』のフェイドアウトに現れるリフを拝借して、一曲に発展させたものだ。
だが、『死ねバレンタインデー』で注目すべきは、“配置転換“先の曲調が、従来の曲調とは全く異なっていることにある。
雑魚なパクり野郎が、オマージュと称して、似たような曲から安直にフレーズを拝借するのはよく見かけるが、こういうのは“配置転換“ではなく、“降格“に相当する。
サラリーマンなら給料が減らされる状況であり、価値を毀損されたフレーズには屈辱ものだ。
劣化コピーは、オリジナルを耳にした途端に色褪せる。そこには何もないんだよ!
雑魚と巨匠の隔たりは大きい。巨匠は、茶室に一輪の朝顔を飾るように、大胆にフレーズを刈りとって、あるべき場所に添える。そして、それを愛でるには、聴き手にも澄んだ心が要求される。
もちろん、これは手法の一つに過ぎない。パクリ道は、終わりのない道。しかし、パクリを目指す者たちには、藤岡藤巻という道しるべがある。迷わず、藤岡藤巻に向かって進みなさい。そして、求めるのです。ライブのチケットを。