藤岡藤巻の楽屋

ゆるーく書きます

パクリ道分析の追記

藤岡藤巻のフジオカです。

 

せいろがんが、「パクり道の千利休・藤岡」について語ってるんで、フジオカも「藤岡巨匠」の分析をしてみます。

 

巨匠のパクり道には、引き出しの多さという基盤がありますね。それは、そもそも「音楽」には、無限の曖昧さがあるからであると思われます。

 

「このメロ、いいな」と思うアナタの感性は、極めてイイカゲンなんです。単純に、聞いた日が晴れてたり、雨だったりで、楽曲の評価なんて変わる、そもそも「音楽」なんて、生命維持や、衣食住に比べたら屁みたいな価値しかない。何なら「屁」の方が、健康な腸活を計るのにはるかに重要かも知れないし。

 

たぶん、人類の創成期アフリカで生まれた、「音楽」ってのが、その後の日常を豊かにするという、ワリと他愛もない理由だけで、綿々と伝承されてきたんでしょうね。

この辺は長くなるんで別な機会に論じたいですが、藤岡巨匠の楽曲作りは、いわばSDG‘sという、いかにも21世紀の仕事だと言わざるを得ません。

過去の名曲、自作の気に入ってる楽曲、たまたま気になったCMソング等を、再生活用してメロディを、回収、整理、分別、再製品化して楽曲を作る。なんてエコで無駄のないやり方でしょうか!

 

あ、ここら辺のハナシは、フジオカ氏個人の仕事関係の人には極秘ですから、このブログ読んでる人たちは口外しないでくださいね。知らない人には「作曲する前には、必ず滝に打たれてる」とか言ってあるんで(;^ω^)

 

まあ、同様の才能で大成功してる、Kわたけいすけや、Y-ミンに比べると、結果が伴ってないのが理不尽ですが、この「サステナブルな作曲法」ってのは、いかにも現代ならではの「パクリ」という文化なんだと思います。

 

もちろん、モーツアルトも、ビートルズも、高度なパクリを駆使して「新しい音楽」を生み出したわけなので、現代でいうところの「パクリ」とは少し違います。

現代の「パクリ」とは、もうちょいコスパが良いんです。

当時は少なかった引き出しが、高度情報化のおかげで、格段に楽になった時代なんです。

もちろん、早晩「AI」に取って代わられるのは疑いもないですが、まだしばらくは、SDG‘sソングの時代は続くでしょう。

 

完全に新しいメロデイと、再利用して作ったメロディ、その差が「どうでもいい」ところにこそ、人類における「音楽」の意味のなさを表しているですね。

 

「No MUSIC、No LIFE」とか言ってた頃が懐かしいですねー。